今日の雑記

生きることでいっぱいいっぱい

阪神大震災25年

今日は阪神大震災から25年か。当時はコンパイルに勤めていて広島にいたんだよな。その時はというか、地震直後のことは全く覚えていない。時間的に寝ていたので気が付かなかったんだと思う。恐らく起きてテレビをみて知ったかと。
出社したら結構な騒ぎだったと記憶している。関西出身の社員も結構いたからなあ。同期にも何人か関西出身者がいたし。
まもなく311だけど、震災というか自然災害に対する備えというか心構えに対しては忘れてはならないなあという思いを新たにする、なんだけど、やはりついつい忘れがちなんだよなあと思う。自戒を込めて改めて書いておく。

46歳になりました

人生も折り返し地点ですね(何歳まで生きるつもりだよ)
45歳は何気に新しい事を始めました。まあ詳細は書きませんけど。
最近自作ゲームも公開できてないですね。今年こそは何らかのゲームを公開したいですね(作ってはいるんですよ?)
ということで、今後ともよろしくお願いします。

承認欲求

最近、身内も含めよくこの言葉を目にするので一文書く。
正直この言葉は概念も含めて不要だと思う。この世から無くなればいいのにとすら思う。
ボク自身はどうなのと問われるともちろんこんなものいらないし、そもそも承認て誰から?どういう感じで?何を?と、疑問符ばかり出てきてすっきりというかはっきりしない。
まず、「認められないと何もできない(という体でいいんですよね?)」という発想自体がどうよと思うんですが、それもこれもこんな言葉がなければそういう発想にならないわけで、やっぱり言葉自体がなくならないとなあと思う訳です。
もちろん、「承認欲求という言葉じゃなくても別の言葉が生まれる」という話もあるんでしょうけど、ここではそういう話をしてるんじゃなくて、「認められたいという要求」について言葉がつく、という事を言ってる訳で。そもそも「他人から認められたい」という心理的状況ってそんなに重要ですか?という事を言いたいのです。
他人の評価なんて所詮他人から見た視点でしかない訳で、もちろんその他人の評価が波及して別の人の評価に結びつくこともあるでしょうけど、大体「不当に他人を低く評価する」人はその人自体の評価が低くなる傾向がある訳で、自分自身が他人に対して真摯な態度を取っている限りあんま気にすることもないのかなあと。
むしろ自身の評価を気にするあまり自分の思いとは違う行動をとって他人に思いもよらない評価を得てしまうこともある訳で、その辺は気をつけた方が良いなあと思います。
結論としては「もし認めてもらいたかったら自分の素直な気持ちで行動したほうが良い」ということです。ボクはそういう心がけで行動してるつもりですし、万が一それで自分の評価が下がったとしても、それは自分がとった行動の結果なので、他人の目を気にして取り繕った行動の結果、よりもぜんぜん納得できると思うんですよね。